「彼女たち」の連合赤軍 大塚英志

「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)
やはり最初は、「連合赤軍」に対する興味からこの本を手に取った。
連合赤軍」に興味があるといっても、なかなか関係する書籍に手を出さなかったのは事実だ。
それについて、あまりにも多くの人によって語られているこの「歴史」を受け止める自信がなかったのかもしれない。
あるサイトと出会って、ここ1年くらいでむくむくと「もっと知らなければいけないのかもしれない」と考えるようになった。
少しずつ、私は「それ」について書かれていることに触れるようになった。


まだ多くを語るほどの書物を読んでいるわけでもいないが、この【「彼女たち」の連合赤軍】は面白い視点で切り取られている。
「彼女たち」は私たちと同じ「彼女たち」なのである。
革命なんて言葉でしか触れたことのない私たちと「彼女たち」は実は同じ感覚を持った生き物であるというのだ。
確かに、そうなのかもしれない。
72年をなんとなく境として、時代は消費社会に溺れていく。
溺れまいともがく「彼たち」と対照的に水を得た魚のようにうまく泳ぎだす「彼女たち」
そして永田洋子は、「彼たち」に泳ぐということを教えられずにもがいて生きていたように思えた。


この本はもちろん「連合赤軍」の「彼女たち」について書かれているのだが、意外にも後半部分に引き込まれた。
森恒夫のくだりあたりから出てくる、「私」という自己を他者を通じて存在させるということだ。
森恒夫自己批判の中でしか「私」を語ることが出来なかったように(それすら我々と曖昧にぼかしているのだが)、消費社会を優雅に泳ぐ女性たちは「夫」の肯定によって「私」という自己を確立していくという点だ。


この部分は非常に「はっ」とした。
自分だ、と思った。


「他者」が語る「私」が自分が考えている「私」よりも「私らしく」感じられるのだ。


近頃特に感じていたのだか、「私」など実は存在していないという事実と私はついに出会ってしまった。
それが良いことではないように感じられるのだが、悪いことのようにも感じられない。


しばらくの間、私はこのことについて考えてしまうのだろう。


アンチョビ評価 ★★★★☆