映画の原作を読むのはしばらく禁止とするか

空中庭園

空中庭園 (文春文庫)

空中庭園 (文春文庫)

映画化決定!の原作を読むのは非常に難しい。「空中庭園」は私の目標である小泉今日子(ちなみにあこがれは麻生久美子)が主演である、ということがきっかけで読んだ。なんだかぐちゃぐちゃと映画のサイトを渡り歩いているときに、
小泉今日子 「空中庭園
という字面をみた。これって、ひかれませんか?この文字の組み合わせって、ひかれませんか?ということで、その当時はまだ予告編くらいしかないサイトを見た。そしてこの予告編でやられた。小泉今日子の夫はなんてったって板尾創路だし、広田レオナの息子は出るし、大楠道代だって出ているのだ。見る?見ない?見るっしょ!てな感じで一人盛り上がってしまった。で、原作は角田光代
角田光代には、触れないように注意していた。1回読んだら、ずるずるはまってしまうのではないか?という思いから、注意深く避けていた。はじめて角田光代の文章(小説ではない)に触れたのは雑誌Hだった。その号の特集は「東京 ひとり」だったかな。表紙の写真は宮崎あおいちゃんで、巻頭はあおいちゃんと麻生久美子だった。そう「青い車」つながり。この二人の写真がばっちり見られる号を私が買わないわけがない。うっとりしながら眺めているその写真に書かれている文章は角田光代のものだった。はじめは知らずに読んで、「岡崎京子が大好きな人が書いたっぽい文章」だなーと思いながら読んでいた。んー、リバーズ・エッジの最初を読んでる感じに近かった。そしてやっぱり岡崎京子の漫画を読んだあとみたく、切なくなった。そのあとに「角田光代」という文字を見つけた。やばい。この人の文章、あんま読んじゃいけない。と、思ってしまった。それから本屋でもあんまり気がないそぶりをしてやり過ごしていた。だけど、「嫌われ松子の一生」を読んでしまったのがいけなかったのかもしれない、 映画化決定! の原作読んでもいいんじゃなーいと油断してしまった。
結果的に、あのHの文章と「空中庭園」は別物だった。ひょっとしてHの文章角田光代じゃなかったのか?と今まさにこれを書きながら沸いてくる疑問。帰ったら調べよう。「空中庭園」は映画を見る前に読んでも読まなくても、どちらでもよかったのかもしれない。私としては、そんな感想。印象に残った言葉もあんまりない。「嫌われ松子」との一番の違いは、「嫌われ松子」は松子=中谷美紀というところしか知らないので、あとの人物は全部自由に読み進むことができるのに対して、「空中庭園」はほとんどすべての人物を頭の中で置き換えて読めてしまうことだ。これはいかん。非常にまずい。マナと鈴木杏、ミーナとソニンなんかはどうしても私のイメージと違うのだ。しっくりこない。そこのギクシャクとした感じが読む進むにつれて大きくなってくる。どうも話に入り込めない。そんな気持ちのまま読み終えてしまった。前置きが長くなった、とにかく感想。


ミーナが止まった電車で考える「家族なんてこうやってたまたま電車に乗り合わせたようなもの」と感じる気持ちは、そうだと思う。世の中には仲が良くって友達みたいな家族というものも存在するとは思う。だけど、家族じゃなかったら付き合わないな、とか思いながらも「しょーがねぇーなー」みたいな愛で出来上がっている家族のほうが多いんじゃないかと思う。そこに関係あるのは血のつながりみたいなものよりも、どれだけの時間を長く過ごしているかという点だと思う。夫がよく言うのだが、自分が生まれて育った家庭に25年暮らして結婚したとする、そうすると新しい家族の考え方やなにもかもにすっぽり自分がなじむのは25年後だそうだ。何だか納得する話だ。家族って勝手になるものじゃなくて、一緒に作るものなんだなぁと改めて思う。作る気がない人が居合わせると、いとも簡単に崩れてしまう。それが家族という集団なのだなぁ。