読書日記

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

これも長く読み続けた作品。栞をはさまずに読んだので、同じところを何回か読んだ箇所もある。それぞれが独立した短編小説であり、全体を形作るエピソードでもある。ひとつひとつの短編だけを読むことと、この本全体を通して読むことはかなり意味が違うような気もする。
ティム・オブライエンはこれの前にこちらを読んだ。
世界のすべての七月

世界のすべての七月

これがすごく良かったので、いつか読みたいと思っていたこの「本当の戦争の話をしよう」に取り組んだ。結果「世界のすべての七月」とは比べるべきではないかも知れないが、こちらのほうがより良かったように思う。
「本当の戦争の話をしよう」を読み続けているうちに気持ちはうんざりしてくる。とにかくうんざりしてくる。戦場で彼らがその暮らしにうんざりするように。ひとつのエピソードについて、ティムはしつこいくらいに繰り返す。特に不快な事柄や事実であればあるほど、これでもかと叩きつけてくる。それだからこそ、読み手である私たちは引きずり込まれ、うんざりした気持ちをもちながらもここから離れないような気持ちにもなる。
戦争に行ったことのない私は、戦争について考える。「戦争」それはとてもクレイジーな日常のことだ。白くやわらかいベールにくるまれた日常とは、何もかもが違う世界だ。正しいこと、正しくないこと、勇気があること、勇気がないこと。それぞれの判断基準さえもがでたらめだ。そんな世界で暮らすことによって、兵士たちは「特別」な体験をしたという記憶だけを刻み込まれる。どんな人間も「特別」な自分でいたいのだ。「特別」になってしまった兵士たちが帰る場所は、彼らの額に刻み込まれた「特別」の文字をだれも読み取ってくれない世界だ。「俺がナムで…」その後に続く話がどんなものであれ彼らにかけられる言葉はきっと決まりきった言葉だ。額にある「特別」の印を読み取れるのは、同じ「特別」の印を持ったものだけだ。だけどその印は薄くなっていく一方だ。久しぶりに会った戦友の印はもうすっかり読み取れないくらいであるのに、自分の額には恥ずかしいくらいくっきりと「特別」がある。自分を恥じるべきか?戦友を恥さらしというべきか?そんなもの誰も答えを持たないのだ。
戦争映画を見て、戦争小説を読み、最近の私は戦争について考えてばかりいる。


本当の戦争を知らない私。