映画日記

すごく興味深いものだった。ドッグヴィルと同じくリアルな閉塞感があふれていた。映画の中で、孤独と混乱に飲み込まれていったのはグレースだったが、撮影現場で孤独と混乱に飲み込まれていたのは監督のラース・フォン・トリアーだった。ラース・フォン・トリアーは私の想像とまったく違っていた。とにかく、自分で考え出したドッグヴィルというものが、彼を孤独にさせ混乱させていくのだ。そして混乱したまま演出をうけるうちに、役者たちにも混乱が伝染していくのだ。閉じられた空間で、負の感情が連鎖する。
そんな彼の様子と、箱の中で告白を続ける人々。これがフィルムになっていることも異常な感じがするのだが。
箱の中で、一番慎重に言葉を選んでいたのはニコール・キッドマンだった。箱という告白の場でさえも、すべては告白しないニコール。他の出演者はカメラを他者として捕らえていたように感じるのだが、ニコールだけはカメラを自分自身として対峙していたように感じた。ニコールは責任というものは自分がとらなければいけないものであることを、強く認識しているのだろう。何度もつぶやく" I'm here."はもちろん自分への言葉だ。「私はここにいる」そして「ここにいることを選んだのは私」ということを改めて認識させて、ぎゅっと自分にしがみつく。
途中、セットの中でメディアの取材をみんなで受けるのだが、このときもニコールとラースは奇妙に似て見える。二人とも、この非日常的な場所でメディアという大衆的な日常と向き合うことに混乱しているように見えるのだ。この中で、ラースは「最後の作品になるかもしれない」というようなことを口にする。たぶん映画とこのコメントの部分だけを見たら「まさか」と信じないだろうが、この言葉の前にたっぷりと撮影に挑むラースを見ているので、「あぁ、確かにあんなしんどいこともう二度とできないと思うだろうなぁ」と素直に思った。それくらいラースは自分のすべてをかけて映画を作っていた。言葉どおり、身を削って。
こんな状況の中で撮られたドッグヴィルは確かにすごく奇妙な映画だったし、ああいった撮り方しかできなかったのだろうとも思う。撮影に入るときに「壁越しに見ないこと」という注意をする場面があって、確かにとなりの家が丸見えなのに、全然知りませんという顔をして日常を演じることはすごく難しいのかもしれいなと思った。さらに、出来事がおこる場面だけを撮影するわけではなく、出来事が起こっている人と日常生活を送っている人を同時にその場に存在させなければいけない。常に全員集合だ。これはしんどい。
ドッグヴィルがすごくおもしろく見れた人は、これも見るとすごくいいと思う。
ドッグヴィルは、見るべき映画だったと思うし、素晴らしい映画だった。だけど、今はもう1回見ることができない。私にとってはそういう強い力を持った映画である。