読書日記

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

子供の頃からどうしても理解できない言葉があった。「責任をとる」という言葉だ。「責任感」や「責任を持つ」は理解できた。だけど、「責任」を「とる」のこの「とる」の具体的な行動が何を指すのかが、私にはさっぱりわからなかった。
本の中ではこの「責任(レスポンシビリティー)」について語られる箇所がある。そこでいまさらながら「責任」を辞書で引いてみた。辞書の中にあさっりと私の疑問に対する答えがあった。
【2. 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の―をとる」「―転嫁」】
「責任をとる」は簡単にいうと、代表しておこられることだった。私を襲う失望感。なんだ、そんなことだったのか。勝手に、おこられるとか首になるとかでは責任をとったことにならないだろう、と思い込んでいたのですっかり肩透かしだった。
そこで改めて「責任」について考える。本の中では日本と欧米の「責任」の違いが明確に語られている。この部分は非常に興味深かった。欧米は「個」日本は「場」で責任を受け止めているというのだ。これは、もうものすごく納得させられた。この「責任」に関する認識が変わらない限り、日本人に「個性が大切です」とか「個性を伸ばそう」とか言っても変わることなどできないとも思った。「責任」が「個」にあると認識できている人は、日本では「個性のある人」として存在している場合が多い。そういった人は自然に「個」を大切に思うので「個」が必然的に際立ってしまうのだ。
これは「結果」をどうとらえているのかという問題と共通する。
「努力した(頑張った)けど、結果が出ませんでした」ということが、平気で言えるか言えないかの違いだ。
「責任」が「個」にあると考えたときは、「結果」が出せていないということは、それ相応の努力も頑張りもされていないと考える。しかし、前述の言葉を平気で言える人は、結果を出すには自分だけに「責任」があるのではなく、それをとりまく環境にも「責任」があると考える。「努力したのですが、○○のせいで、結果が出ませんでした」となるのだ。
※もちろんこの世には、本当に努力しても結果がでないということもある。だけど本当に本当に努力した人は、簡単に責任を転嫁しないような気がする。
話がまとまらなくなってきたが、私の頭の中はこの本によってずいぶんとすっきりしたし、「責任」を考えるときには、すべての結果は自分が引き起こしているという今までの考え方が間違っていないこともわかった。この本はもちろん「責任」の話だけではなくて、興味深く面白い話がたくさんある。対談は1995年だから、もう今から十年以上も前のことなんだけど今読んでも全然違和感がない。もっと早く読めばよかったなと思う反面、今だから理解できることもたくさんあるなとも感じている。
村上さんが表現したように「頭のむずむずがほずれていく」まさにそんな本であった。最近読んだ中では群を抜いて面白かった。