歯列矯正のことも忘れて私は恋に落ち、貯めておいた結婚資金を使い結婚した。
そしてこの結婚式が、私の歯列矯正を本格化させたのだ。私たちはうかれていて、披露宴で自分たちのVTRを流すという余興を行った。
通常結婚式でしか会わない程度の関係ならば、新婦は遠い場所にいてキャンドルサービスなどで少し近づく程度だ。だけれど、私たちはVTRを流してしまった。VTRにはもちろん私のがたがたの歯並びが映し出されていた。
披露宴に出席していた歯科医師と歯科技工士は私の歯並びを見て、ほうっておけなかったそうだ。「ここまでひどいのに」と思ったらしい。
そうしてあれよあれよというまに、私はその歯科医師と歯科技工士のもと、歯列矯正をはじめることになった。そのときはもう「どうする?」という選択肢はなくなっていた。すでに「いつからやる?」という選択肢にすりかわっていた。
私も覚悟を決めて「さあ、いつでもギラギラの器具をつけてやる」と意気込んだ。
しかし、歯列矯正といって思い出すあのギラギラの器具はその気になったからといってすぐにつけてもらえるわけではなかった。
1〜2ヶ月程度の準備期間のはじまりだった。

「THINGS WE LOST IN THE FIRE」

すごく良かった、見て良かった。
人々の心の細やかな部分が丁寧に描かれていて、私は終始ぐっときてばかりいた。
大人になったある日、私は突然気がついた。「この世の中で、私の心の中を100%理解できる人はだれもいない」ということに。それはささいなすれ違いからだった。
夫婦などの場合、相手に対して「こうだからこうしてくれるはずだ」という思い込みが生じやすい。そして相手がそのように動かぬ場合、往々にして諍いがはじまる。しかし、そのときふっと逆の立場になってみた。
そして、「私は夫が私にどのようにしてほしいか100%は分からない」というすごく単純だけど今まで考えたこともなかった事実に気がついた。人の心の中を理解することなんか永遠に出来ない。
そう気づいてからは、人間関係が楽になった。まず、自分が思ったとおりに相手が動くことなんてありえないと考えるようになったからだ。
この映画を見ていてそんなことを思い出した。映画の中の登場人物たちはそれぞれの関係がどうもうまくいかない。相手に何かを求めすぎてしまうのだ。そしてみんなが途方にくれてしまう。当たり前だ。
だけども、奇跡を信じ、私たちはそれでも心を触れ合わせる。

「REVOLUTIONARY ROAD 」

閉じていくお話。
子供の頃は多くの人が自分は『特別』だと感じていたかもしれない。だけど、だんだんと広がる世界と向き合ううちに、だんだんと「自分は『特別』ではない」という事実を受け入れていく。
まれにその事実を受け入れることなく大人になってしまった人たちがいる。そういった人たちはたぶんあまり幸せではないのではないかと思う。いつまでたっても目の前の事実が受け入れられないからだ。いつも心は「ここではないどこか」を目指してしまう。「ここ」でうまくやれていないのに「どこか」でうまくいくはずがない。そのことにさえも気づけない。
かくいう私も、そんなひとりであった。だけど、私は夫に出会った。夫は『特別』だった。『特別』になりたがっている人たちが目指す人生を夫は歩んでいた。そして、私はひとつの事実に気がついた。
夫自身は自分の『特別』に気がついていないことに。
そうなのだ夫のような人たちは体のどこかにほんの小さな『特別』のしるしを持っている。本人たちは気づかないような場所に、だけど近くにいる人たちはどうしても気づいてしまう場所にそのしるしはある。そして私たちにしるしは語る「あなたは『特別』なんかじゃない」と。
そうして、目の前の事実を受け入れたとき、私はとても生きやすい人生を手に入れた。あるがままの私。あるがままの毎日。劇的なことは起こらない。いや、起こせない。だけど自分の努力しだいですこしずつよくなる人生。
いまのところ、私はこの人生にすっかり満足している。
だけど、この映画の主人公はどうしてもそれが受け入れられなかった。それゆえにどんどんと閉じていってしまった。とても悲しい結末だった。
本当の自分を受け入れることは、勇気がいることだ。
だけど、ずっと自分と生きていくのなら、それを受け止め、受け入れていかねばならない、と思う。

私は神様のような歯科医から『歯列矯正』という選択肢をある日つきつけられた。
何事にも影響されやすいため、その日から私の頭は『歯列矯正』のことでいっぱいになってしまった。そしてとにかく手当たり次第に相談を持ちかけた。
相談を持ちかけられた相手は一応にちょっと詳しい人たちに聞いてみるという作業を行ってくれた。しかし、その聞いた内容に関わらず「相談をもちかけた相手が歯列矯正をしたいと思っているかそうでないか」で意見は分かれた。
ずっと歯列矯正がしたかったと私に語った彼女は「できるなら私もやりたい。自分の歯の中心と鼻の中心がずれているのが、昔からとてもとても気になっている。そんなチャンスに恵まれてうらやましい」というようなことを言った。ちょと待て。私はチャンスを手に入れたわけでもなんでもないのだ。ただ知らなかった情報を入れられて、混乱しているだけなのだ。むむむ。
そして、結局私もみんなと同じ結論に達してしまった。「歯列矯正をしたい」という気持ちが私に無かったため、私は「噛み合わせを直す程度でごまかしながら生きていこう」と決めた。
その数年後、結局ふたたびこの問題とめぐり合うことになるのだが、このときは「せっかく貯めた結婚資金が歯列矯正に消えなくてよかった」としか私は思わなかった。

バグズ・ライフ [DVD]

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何年も前から見たい見たいと思い続け、ついに鑑賞。
想像通り、いや想像以上だった。
ぐっとくるストーリー、はっとする描写。途中から私は子供のよう前のめりになって、夢中になってしまった。
この前Twitterで読んだ言葉。
「大いなる勘違いと思い込みが偉大な人を作る。だけどそれだけで偉大になった人はいない。」
うろ覚えだけどそんな言葉だったと思う。
まさにフリックのスタートは勘違いと思い込みだった。だけどすべてはそこから始まる。そんなことを思いながら見ていたら、フリックが旅立つところで私は早くも泣き出してしまった。
「本当に正しいことははじめは笑われるものだ」
ディッケンズはクリスマス・カロルでそう語っている。
たった一つのフリックの志「みんなの役に立ちたい」が世界を変えた。
『思い』がなければ始まらない。その大切さを改めて教えられた。傑作。

細々と自分の自己満足的なブログを続けている。このふらふらとしたブログに出会う人の多くはどうやら「歯列矯正」に興味があるらしいということにうっすら気がついた。
たまには、人の役に立つかもしれないことを書こうと思い。思い出せる限りの「私の歯列矯正」をここに記そう。
最初に私が「歯列矯正」とまともに向き合ったのはもう10年も前のことだ。
ある日顔を洗ったときに鼻に痛みが走った。私は顔を洗うときに手を動かさずに顔を動かしてしまう。子供の頃は水泳の時によくからかわれたものだ。その日も激しく顔を動かしていたのだが、どうも鼻が左右に動くと痛い。ちょっとどころでなく、あきらかに何かがおかしい痛みだった。
当時勤めていた会社では『不可解な病気はすべて歯が原因』という風潮があり、私も同僚たちに詳細をつげた後迷わずに歯医者へと向かった。
そして驚くべきことに私の鼻の痛みは治まった。私の説明をふむふむと聞いていた初老の腕利き歯科医は「ちょっと削るね」と言いながら私の噛み合わせを直していった。彼が治療を施した後、どんなに動かしても鼻は痛くなかった。その瞬間歯科医は私の神様になった。
そして次の瞬間神様がこんな話をしだした。
「体というものは本当に繊細なんですよ。少しの噛み合わせでもいろんなところがおかしくなってしまう。あなたの場合は、こんな小手先の噛み合わせではいつかひどいことになってしまうかもしれない。僕はできるだけのことはするけれど、本当に解決するには歯列矯正をすることが最善だ。」と。

マグノリア コレクターズ・エディション [DVD]

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アダム・サンドラー → パンチ・ドランク・ラブ → ポール・トーマス・アンダーソン
2000年のベスト映画であり、いまだ私の中で傑作となっているマグノリア
まず、群像劇という時点で十分なのだが、それを抜きにしても最高。
エイミー・マンの曲にあわせたオープニングのかっこよさに、これから始まる物語の良さを予感した。
そして、ひとりひとりの抱えるその重さ。特にその時期の私の情緒が不安定であったことも手伝って、どんどんと彼らの話にのめりこんでいってしまった。まるで私が彼らのようにつらい現実に直面しているかのように。
彼らはそれぞれ、かなりの闇を抱えている。だれにも理解されない、そしてとても自分では解決することができない。彼らは行き詰まる。どうにも出来ない現実の前に、どうすることも出来ない小さな自分の前に。そして見ている私の胸もつぶれてしまいそうなほどに。
しかし、その絶頂で神様からの贈り物が空から降ってくる。
彼らはそれぞれ違った状況ではあるのだが、みな同じ夜に行き詰まり、途方にくれていた。
そんな時、空からおびただしい数の雨、ではなく贈り物が降ってくる。果てしなく、何の前触れもなく。
この贈り物自体がこの世の中でもっとも苦手な私。しかし、この雨に心救われることになった。
贈り物が降ってきたそのとき『!?』と普通に驚いたのだが、途端に何もかもがすこしおかしくなってきてしまった。
人生の中では辛いこともある。辛いことばかりかもしれない。だけど人々はそれを何とか自分の力で乗り越えて行こうと、努力している。しかし、時に人生は残酷で自分だけの努力ではどうにもならない局面を迎えてしまうこともある。
人の数だけ解決法というものはあるのだろうが、そんな時人の心を救ってくれるのはほんの些細な日常のおかしな出来事ではないのだろうか。自分は何をそんなに悩んでいたのであろうと思わせてくれるような出来事。普段の生活の中では気づかないほどの些細な出来事。しかし、そこに目を向けたとき、重い雲が垂れ込めていた自分の頭上からわずかな青空がのぞきだすのです。『ひとりで考えていたってしょうがない、もっと気楽にやっていこう』と思うことが出来る。その瞬間に問題は解決へと歩み始めている。
その頃の私は、彼との同居の日々に疲れ果て、彼を責めることしか頭の中になかった。どうして自分の気持ちを理解してもらえないのか。一緒にいたいから暮らし始めた私たちなのに、それぞれにこの先どうしていったらよいのかすでに分からなくなっていた。その日の朝もただ私はキッチンでひとり泣くだけで、私が泣いているのを知っていても彼は隣の部屋から出てこようとはしなかった。
その日私はこの映画をみながら『帰ったら、もう別れ話をするしかない』と思っていた。しかし、この贈り物の雨のシーンを見た後、『もう少しこの人と頑張る事ができるかもしれない』と思うことが出来てしまった。結局延命されただけだったのだが。
だけど、この映画と出会えたことにより、私は人生に対して肩の力を抜くことが出来たような気がした。3時間を超える大作ではあるが、私は劇場でみじんも長さを感じなかった。本当に私の中では傑作としか形容できない。
しかし、残念ながらこの雨のシーンに自分が耐えられる自信が今のところないので、観賞したのはこの劇場での1回のみ。